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日本の匠にクリエイティブの源を聞くインタビュー特集『匠の道』。
第3回にお話を聞いたのは、豊島屋酒造株式会社の営業部部長、田中孝治(たなか・たかはる)さんと、株式会社アンカーマン代表取締役の和田直人(わだ・なおと)さんです。
日本国内のみならず、世界的にも「SAKE」という名で急速に親しまれつつある日本酒。
その醸造元ともなれば、いかにもコンクリートジャングルからかけ離れた環境を想像しがち。しかし都内に「江戸、東京の酒」を造り続ける酒蔵が存在し、しかも実際に訪れることができ、その製造工程の見学はもちろん、造りたてのお酒を飲めるという「酒蔵見学ツアー」まで開催されていること、ご存知でしたか?
東村山市にある酒蔵、豊島屋酒造は1596年の創業以来、明治神宮の御神酒(おみき)にも採用される銘柄『金婚正宗』を世に送り出しながらも、近年では地酒専門店のみに卸す地酒銘柄『屋守』(おくのかみ)を新たに生み出したりと、まさに温故知新の老舗酒蔵。
対するアンカーマンは「日本酒を世界へ」をビジョンに掲げ、蔵元と海外をつなぐ架け橋となるべく、主に外国人観光客を対象とした酒蔵ツーリズムを企画・運営するベンチャー企業。
この2社がタッグを組むことから始まった酒蔵ツアーには、世界中から熱狂的なSAKEファンが集います。
代々続く歴史のバトンを受け取りながらも、自らの代で新銘柄『屋守』を開発し、新たに東京発の地酒として売り出すと同時に、海外からの訪問客を受け入れる豊島屋酒造。なぜそこまでして、伝統と改革のふたつに真っ向から立ち向かうのか。
その背景には思いがけない秘話がありました。

日本酒を世界に伝える
2013年、観光庁は新たに「酒蔵ツーリズム推進協議会」を発足させました。
これは酒蔵開放や酒蔵体験を通じて、観光資源として大きなポテンシャルを持つ日本酒の魅力を外国人にも知ってもらおうという取り組み。この協議会メンバーの一人であり、自身でも酒蔵ツーリズム事業や蔵元の輸出支援に携わるのが、アンカーマンの和田直人さんです。
「観光客向けに酒蔵見学ツアーを企画するにあたって、全国の酒蔵を100ヵ所ほど回りました。大事にしたかったのは〝お酒ができあがる過程を体験〟してもらうこと」
「そこで、私が掲げた条件は3つ。第一にお酒が美味しいこと。第二にアクセスがいいこと。空港からすぐ訪問できるのは、観光客にとって大きなメリットですよね。第三に、いかにも酒蔵に来た!と感じられるような雰囲気があること。豊島屋さんは三つすべてが揃っているんです」
和田さんが初めて豊島屋酒造を訪れたのは、2014年のお盆明けのこと。
「和田さんが酒蔵見学に来て下さって。外国の方を日本の文化に触れさせたいから、酒蔵ツーリズムをすることはできますか?と。もちろん!と答えた」と田中さん。

もともと豊島屋酒造では、外からではなかなか見えない酒蔵の仕事を知ってもらいたいと、2010年辺りから蔵を一般公開し、製造工程を見学してもらうイベントを開催していました。現在はそこにアンカーマンからの観光客も加わることで、ただお酒を造るためだけの酒蔵でなく、お酒を愛する人々の収束地点にもなりつつあります。
「蔵のなかでは見学にとどまらず、体験もしてもらいます。たとえばタンクに1本だけ立った櫂棒を、こういうやり方でやるんだぞと。はたから見る分には簡単そうだけれど、実際にやってみるとバランスは悪いし、もろみがうまく上がってこない。そういうところに新しい刺激があるみたいで、皆さん驚きながらも楽しんでいかれますね」
和田さん、訪れた方々の反応はいかなるものですか?
「ツアーに参加される方々は、ただ酔っ払えればオッケーという訳じゃなくて。もっと裏側を知りたい。とりわけ麹造りに興味を持ちますね。たとえば、数時間おきに麹の温度や湿度を管理することを、田中さんが〝赤ちゃんを世話するように〟と説明されたとき、皆さんとても関心されていました」
現在、酒蔵見学ツアーは月に数回。外国人の方だけを連れてくることもあれば、日本人とのミックスで連れてくることもあるのだそう。「アンカーマンという社名には〝船の碇〟と〝リレーのアンカー〟をかけています。バトンを受け取る最後の人として、日本酒の素晴らしさを世界に伝えていきたい」
それほどまでの熱意で、和田さんが世界に伝えたいという豊島屋酒造。そこには一体どのような歴史が詰まっているのでしょう?


「歴史の影にアイデアあり」豊島屋400年の物語
時は1596年。豊臣秀吉から徳川家康へ政権が揺れ動かんという激動の時代に産声を上げたのが、豊島屋でした。初めから清酒醸造をしていたわけではなく、まずは居酒屋として始まったといいます。
創業者、豊島屋十右衛門(としまや・じゅうえもん)が商いの場所に選んだのは、江戸城大改修のために荷揚げ場として造られた、神田鎌倉河岸。大改修に関わる職人たちなどを相手に、関西から卸した酒をとても安く提供したのです。
お酒を破格で売りながら、豆腐にミソを塗ったものを焼いた「豆腐田楽」をつまみとして提供したことから、豊島屋は居酒屋の元祖といわれています。そして薄利多売を実現できたのは、空いた酒樽をしょう油屋やミソ屋に売る「リサイクル業」で儲けを出していたからだとも。
そのほか、3月3日の「桃の節句」には、ひな壇を眺めながら「白酒」を飲みますよね。
驚くべきことに、この白酒もまた豊島屋にルーツがあるといわれています。ある夜、夢枕に立ったおひな様から伝授されたという十右衛門。これを桃の節句の前に売り出したところ、評判がまたたく間に広がり、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠まれるほど江戸の名物になったとか。
おひな様にお供えするお酒として白酒が用意されるようになったのは、その名残りだそうです。

東京の酒舗としては最古、江戸に店を出した時期で考えれば東京最古の企業といわれる豊島屋ですが、清酒醸造を始めたのは明治時代のこと。当時は兵庫県の灘地方に拠点を置いていた豊島屋の酒蔵でしたが、昭和初期に現在の拠点である東村山市に移転させ、富士山からの伏流水を井戸からくみ上げ、かの有名な『金婚』を生み出します。
現在は明治神宮、神田明神、日枝神社に御神酒(おみき)として納められる唯一の清酒として親しまれる『金婚』。結婚式で酒樽を木づちで叩いて開ける「鏡開き」も、豊島屋が始めたそうな。
豊島屋400年の歴史は、歴代経営者たちのかくも多彩かつ画期的なアイデアによって支えられていたのです。

酒造りで最も大切なのは「麹造り」
今回話を聞かせてくれた田中孝治さんは、豊島屋の酒蔵として昭和初期に分社設立された豊島屋酒造株式会社の次期4代目蔵元。日本酒ファンの喉をうならせる地酒銘柄『屋守』(おくのかみ)の産みの親でもあります。
「豊島屋酒造では、杜氏(とうじ)以下、頭、船場、酛場(もとば)、元場、釜屋の5名と酒造りに携わっています。私は麹(こうじ)の世話人。麹は赤ん坊のように数時間おきの世話が必要。毎日欠かさず、朝から夜中まで、麹の成長に合わせて世話をしなければならない」と田中さん。
「いまは消費者側に取捨選択の意志がしっかりとある時代。そこに向けて自己主張の強いものを打ち出すとなると、手間暇かけなければならないところが自ずと見えてきて。そうなると最も大切なのが麹造り。それが私の役割になりました」
麹造りについて、アンカーマンの和田さんが教えてくれました。
「麹は酒蔵で造るもの。蒸したお米に麹菌を振りかけて、培養していく。この培養がなかなか難しい。〝一麹、二もと、三造り〟という言葉があるように、一番大切なのが麹造りなんです。ここを失敗すると全てがおじゃん。麹造りを疎かにする造り手はだれ一人いません」
麹の世話から始まり、最終的な味、醸造のタイミング。そのすべては田中さんの判断に委ねられます。いっときも気の緩みが許されない重要な役割を一手に担う田中さんですが、意外なことに、4代目として家業を継いだのは27歳の頃でした。



家業を背負い、突き進んできた14年間
家業を継ぐ――。マイナスに言い換えれば、あらかじめ敷かれたレールの上を走ること。
なによりもトラックで全国を回る物流の仕事に憧れてきた田中さんにとって、日夜酒蔵に篭もる家業は自身の憧れの真逆ともいえるもの。若い時分こそ、それが魅力的に見えることはなかったといいます。
「辛かった記憶は小学校の冬休み。クラスの皆は、スキー行きました、温泉行きましたというなか、私だけなにもない。仕方ないですよね、両親は毎日、蔵に篭もるわけですから。とりわけ母は蔵人のために毎日3食のまかないを作り、うちに帰れば祖父母と私たちのご飯を作って、また蔵に戻る。そんな母の過酷な姿を見て育ったから、若い頃は家業を継ごうとも思いませんでした」
高校卒業後は家業を継ぐことなく、自分で見つけた仕事に就きます。しかし数年後、ようやく新天地を目指すというタイミングでお祖父様が倒れ、入院騒ぎに。
「日に日に、元気がなくなっていく。そんな或る日、おじいが『孫と一緒に酒を造るのが夢だったなァ……』と私に言うんです。その言葉が、胸の奥底でずっと引っかかって。父からも切り出され、ようやく決心ついたのが27歳。11月1日をもって家業に入りました」

いよいよ覚悟を決めた田中さんでしたが、家業とはいえ、はたから見るのと実際にやるのとでは、まるで次元の異なる話。未知の世界を手探りする田中さんの姿を見るに見かねて、お父様が荒削りの修行を用意します。それは、広島県西条にある「酒類総合研究所」で3ヶ月間、住み込みで清酒セミナーを受講するというものでした。
「酒蔵さんの杜氏を目指す人、次世代の経営者。それぞれがそれなりの経験をもって、ひとつの流れを掴んだうえでやってきていた。なのに自分だけ、ズブの素人。なにも分からない。そのとき私と同部屋になった方が、親切丁寧に教えて下さった。おかげで、なんとかついていけたんです。その方は当時、宮城県の酒蔵の専務さんで、いまは社長をされています。今でこそ笑いながら振り返られますけれど、当時は本当に焦りました」
さあ、創業400年の家業を背中に背負う人生が幕を開けます。

東京発の地酒『屋守』誕生秘話
なんとも驚くべきことに、まず田中さんが着手したのは、歴史ある自社銘柄を見つめ直すことではなく〝新しい地酒を生み出すこと〟でした。
キーワードは「江戸、東京の酒」。
「セミナーから帰ったあと、ピンとくるものを探していました。或る日、吉祥寺で偶然立ち寄った地酒メインの飲食店。出されたお酒『醸し人九平次』が衝撃的な味で、本当に旨かった。だけど東京の酒屋さんで地酒を探しても、地方のものばかりで東京のものが見当たらなかった」
田中さん、東京の地酒があってもいいじゃないか!と一念発起。奮闘の日々が始まります。しかし新開発ともなれば、その肩にのしかかるのは創業400年の歴史。
「4年。仕上がるまでに4年かかりました。まず蔵のみんなを説得するにも、自分なりの解釈と説明ができないといけない。いま新しいものを造る必要があるのか?などとも言われましたが、セミナーでの同部屋の先輩に相談したところ、私の考えが合うであろうマーケットの構想を一緒に考えて下さったりして」
しかし構想だけでは、仲間の重い腰もなかなか上がりません。そこで次に田中さんが訪れたのは、東京の地酒専門店でした。
「東京から全国に勝負させてください。この秋から仕込みに入りますので、どうかお願いします!とお取引をお願いしたんです。まだお酒も造っていないのに(笑)。でも珍しい奴が来たと思ってもらえたようで、よし、お前の船に乗った!と」
卸し先を見つけてきた田中さんに仲間も励まされ、いよいよ新酒造りが幕を開けます。2年目は開発に注ぎ、3年目の春先、仕上がったお酒を、田中さんの〝船〟に乗ってくれた店へ。しかし返ってきた言葉は、想像もつかない辛辣なものでした。
「下げられましたね。いやあの、これは新酒で……と言っても、いや分かってるよ、いまの時期に作るのは新酒だろと。いいか、よく聞け。みんなパッケージで買うんじゃないぞ、この店では。中身が美味しい酒を待っているんだ。お前が寝ずに麹を作ろうが、血ヘドを吐いて造ろうが、そんなことは関係ない。頑張って作ってるんですとか、余計な情報を押しつけたら、お客は買わないの。だから無理ですと」
「それでタンク一本をダメにした。父が農家に頭を下げ、お米を再手配してもらった年でした。みんなで一から仕切り直し、ようやく仕上がったものを4年目の春先に持っていった。すると、そうだ、これだよ!と」
「そのとき店主から言われたのが、ものにどれだけ思いを込められるかどうかだぞと。これでお前と俺は一生涯だと。いまじゃうちの二割五分を、一店の酒屋さんが買ってくれています。3年目のとき、勢いで出しちゃえよなんて言われていたら、いまはないですね」


かくして産声を上げたのが、東京の地酒として今や飛ぶ鳥落とす勢いの『屋守』。
〝おくのかみ〟と読みますが、〝やもり〟とも読めるこの字面。ヤモリといえばトカゲの一種として、古くから民家やその周辺に生息し、人家内外の害虫を食べてくれることから縁起物とされてきた生き物。
田中さんは「家守」ではなく「屋守」と当てることで、このお酒が「屋=蔵」の将来を守る存在になってくれれば、という願いを込めました。
「代々繋がってきたものを、無理だとか、藻掻き切れないという理由で途絶えさせることはできない。400年のものあいだ、いろんな時代の波があって、良い時代も悪い時代もあって、それでもいまなお続いているわけですから。とはいえ、自分が陣頭指揮を執れるのも、たかだか数十年。祖父母、そして父母から受け取ったタスキを次の世代にかけてあげることが私の仕事」
お酒造りとは、なにも蔵元だけで完結できる仕事ではありません。
1本のお酒が仕上がるまでには、それこそ夏場に農家さんが耕した田があってのお米があり、それを蔵まで物流業者が運ぶことで、ようやく酒造りに着手できる。それを酒屋が売ることで初めて完結する仕事だと、田中さんは言います。「だから蔵の中では、向上心と感謝というモットーがあって。そのふたつは忘れずにやっていこうねと」
数多の人々によるリレーがあって、自分たちはそのひとつに過ぎない。ひとつの大きなサイクルのため、それぞれが技術と知識、そして誇りをかけて懸命に努める――。それは職人間の話でもあり、また豊島屋酒造の歴史でもあり、なにより田中家のことでもあるようでした。
もちろん、お酒は味が勝負。
しかしそれに加えて、実際に酒蔵を訪れ、田中さんや和田さん、そして職人さんたちの口から、皆さんがどんな想いで造り、伝えようとしているのかをじかに聞き、そして製造工程を見学すること。その「総合体験」によっても、お酒の巧さはさまざまなことを物語ってくれるかもしれません。
酒蔵から日本全国、そして世界へ
最後に、和田さんからはこれからの目標を聞きました。
「蔵での直売りですね。いいものをいい価格で。蔵に来てもらうことイコール、自分たちのフィールドに来てもらうこと。酒屋さんでたくさんの日本酒のなかから選んでもらうのではなく、実際に蔵に来てもらい、お酒が有機物から造られていく過程を見てもらったうえで、蔵で買って頂けるようになればいいなと思います」
田中さんからは、今年の冬の造りについて。
「こないだ製造部と、造りの前に飲んだんです。そしたら『部長さ、わかる? 11月の暦を引くとさ、蔵のなかにピリッとした空気流れるでしょ?』と言われて。『わかるわかる、米が来るからだよね』『そう! ちょっと胃が痛い感じ、あるでしょ?』『ああ、また今年も始まるね』って。みんな共通意識というか、同じベクトルにいるっていうのが嬉しいですよね」
酒蔵から日本全国、そして世界へ。江戸時代から続く伝統のバトンはいつの日にか、アンカーマンの酒蔵見学ツアーを通じてその魅力にとりつかれた海外の若者の手にもわたり、海の向こうでも日本酒が造られる日が来るのかもしれません。
酒蔵に夢中のいまも、トラックで全国を巡る仕事の夢は忘れていない、と楽しそうに語ってくれた田中さん。お二人の話を聞いているうち、翼の生えた大きなトラックの荷台にたくさんの『金婚』や『屋守』を乗せて羽ばたくお二人の笑顔が、ふと見えた気がします。
豊島屋酒造株式会社
http://www.toshimayasyuzou.co.jp/
1596年創業の老舗酒舗「豊島屋」の醸造元として、昭和初期に設立。ここで造られる『金婚正宗』は、明治神宮、神田明神、日枝神社に御神酒(おみき)として納められる唯一の清酒。全国新酒鑑評会でも幾多の金賞を受賞。近年では、オリジナル地酒銘柄『屋守』(おくのかみ)が東京発の地酒として日本酒ファンの話題となっている。
株式会社アンカーマン
http://anchorman-inc.tokyo/
https://www.facebook.com/anchorman0527
「日本酒を世界へ」をビジョンに掲げ、蔵元と海外をつなぐ架け橋になるべく、主に外国人観光客を対象とした酒蔵ツーリズム事業や蔵元の輸出支援に携わる。代表取締役の和田直人さんは、観光庁公認「酒蔵ツーリズム推進協議会」メンバーの一員。

匠(たくみ)にクリエイティブの源を聞くインタビュー特集『匠の道』。
第2回にお迎えしたのは、漆ジュエリーブランド「MIYABICA(※インタビュー当時)」デザイナー、峰岸奈津子さんです。
※2016年よりNatsuko Minegishiとして活動を開始
一般的に漆といえば、伝統工芸品を塗る塗料のイメージ。しかし中には、漆だけをつかって生み出される伝統工芸品もあるということ、ご存知でしたか? それが「堆漆(ついしつ)」という技法。
これは、天然の漆を200~300回と重ね塗ることで出来上がる「漆の板」を切って削って、ときには数枚を重ね貼りして、工芸品を生み出すというもの。乾かす時間も求められる作業だから、塗りは1日1回まで。たとえば100回繰り返すとして、かかる日数は100日間。そうまでして辿り着くのは、わずか3ミリの厚さの堆漆板だといいます。
まったく気が遠くなる幻の技法を、とても小さなジュエリーに落とし込んだ方こそ、ほかでもない峰岸さんなのです。


大学在学中の課題のなかで、漆と出会った峰岸さん。その美しさに魅了されると同時に、漆の豊かな表現力や色のバリエーションにポテンシャルを見出します。卒業後は香川県漆芸研究所に入所し、漆の専門技術を習得。さらに香川県無形文化財保持者の北岡省三さんに師事。
確かな下積みの年月を重ねたのち、2006年から堆漆によるジュエリー制作を手がけ始めました。

10年間、漆と向き合って辿り着いたもの
「初めこそ、漆と聞いても〝お椀の蒔絵〟程度のイメージ。だけど漆を彫ったり、重ねたり。漆といっても、たくさんの技法があると知ってとても驚いた。そうして勉強していくうち、工夫次第で色んなことができると分かって。木目を活かした家具の制作から、木目を漆で塗りつぶした家具やオブジェまでも創るようになったんです」
かくして漆と向き合うこと10年。独り立ちを決意するころ、峰岸さんはある決意を固めたといいます。「師匠が作るものを見てきて、同じやり方での伝統工芸の道を選ぶこともできるけれど、私なりの表現の仕方もあるんじゃないかって」
堆漆板となった漆はたいへん軽く、それでいて石のように固い。水にも強く、使えば使うほどツヤが出る。そしてほかのものでは醸し出すことのできない、なんとも言えない滑らかな質感……堆漆の持つ素晴らしい特徴をふりかえった峰岸さんが見出したのは、「漆ジュエリー」というひとつの答えでした。

MIYABICAの堆漆板は、単色の層を何色も重ねることで仕上がります。作るアクセサリーの型に沿って糸ノコで切り落とし、ヤスリや彫刻刀で削ることによって部分的に現われる下の層がグラデーションとなり、堆漆に表情を与えます。それはまるでポップな考古学でも繰り返されるかのよう。
一連の反復作業は、峰岸さんと漆の「言葉なき対話」でもあるのでしょう。その結果がひとつひとつに宿っていることを、皆さんにも手に取って楽しんでいただけるはず。

「MIYABICA」=「雅びか」=「洗練された」
日本における漆の歴史を振り返ると、実にいまから9000年前にあたる縄文時代まで遡ることができます。そのときすでに赤や朱に染まった漆が使われていたといいますから、歴史の深さは計り知れません。
原液が採れるようになるまでには10年かかり、また1本の木からわずか200ccしか採取できないという漆。それだけ貴重なものがおよそ1万年の歴史のなかで途絶えることなく継承され続けたのも、ひとえに漆の「雅びか(みやびか)」あってこそ。
ブランドネームの「MIYABICA」は、まさしく「雅びか」という古き美しい日本語に由来します。「もともと〝雅(みやび)〟という言葉が好きで。でも、てっきり古風なイメージだと思っていたんですね。それが調べていくうち、実は〝都会的〟とか〝洗練された〟という意味だった。それこそ私が表現したいものだと思い、ブランド名をMIYABICAに決めました」





大げさでなく、ただただ〝雅びか〟に
幼い頃から大人しい性格だったという峰岸さん。「クラスが騒がしいなか、私はちょこんと大人しく座っているタイプ。先生が『みんな、峰岸さんを見習いなさい!』とお手本にするほどでした」と照れながら。お話を聞いているあいだも、言葉の代わりに微笑みを返すような、大げさに多くを語ることのない、物静かな佇まいの峰岸さん。
その一方でMIYABICAから確かめられる峰岸さんの特徴はやはり、ひとつのことを諦めずにコツコツと続けられる芯の強さ。「私、負けずギライなんですよ。あの子にできて、私にできないはずはない!みたいな(笑)。大人しくしつつも、そういう面は常に持っていました。その分、根性はあるほうなんじゃないと思います」

大げさでなく、ただただ〝雅びか〟に—。小さなジュエリーに込められた想いは、私たち日本人にとってかけがえのない伝統であると共に、美学でもありました。
「とても手間はかかるけど、私にとってこれは、〝朝起きて歯を磨く〟のと一緒。地道な積み重ねだと思っています。伝統が伝統として歴史に長く残るのは、ひとえに美しく価値のあるものだから。それに携わる者として、中途半端なものは手がけられない。人の心を動かせなかったら、伝統も廃れちゃうじゃないですか。ただ漆を塗り重ねるだけでは、価値は生まれないかもしれない。だから日々試行錯誤して、新しい堆漆の表現を追い求めています」
古くは縄文時代まで遡れる漆。出土されるものの中には、1万年の時を経てなお輝きを失わないものもあるとか。MIYABICAの漆ジュエリーをいつの日か未来の人々が掘り起こしたとき、その輝きと美しい造形、なおかつ機能的な作りにどんなことを想像するでしょう。そんな妄想ができてしまうのも、MIYABICAと漆の持つ、時空を超えた不思議な魅力なのかもしれません。
峰岸奈津子
http://natsukominegishi.com/
1976年、埼玉県生まれ。
武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科在学中の課題で漆と出会う。
その美しさに魅了されると共に、漆の多様な表現方法、色のバリエーションに
可能性を感じ、卒業後2001年より香川県漆芸研究所にて専門的に彫漆の技術を習得。
香川県無形文化財保持者である北岡省三氏に師事しながら日本伝統工芸展、
日本伝統漆芸展を中心に作品を発表。
2006年、独立。堆漆によるジュエリー製作を始める。
2009年、ブランドMIYABICAをスタート。
2011年、2k540AKIOKA-ARTISANにアトリエ&ショップをオープン。
2016 年 よりNatsuko Minegishi の名で新たに活動をスタート