日本の匠にクリエイティブの源を聞くインタビュー特集『匠の道』。

第4回から第7回にかけては、北陸新幹線の開業1周年を記念した北陸特集が続きます。今回お話を聞いたのは、富山県は南砺市 城端(なんとし じょうはな)に位置する「松井機業」6代目見習いの松井紀子(まつい・のりこ)さん。可憐な佇まいと豪快な笑い声を放つ、一度会ったら忘れられない笑顔の持ち主です。

 

明治10(1877)年創業の松井機業は、これまで一貫して絹織物を手がけてきました。なかでも、2頭の蚕が創り出す奇跡の「玉糸」から織られる「城端しけ絹」の生産に力を注いでいます。

創業明治10年の老舗、松井機業が今回の舞台です

しけ絹」という愛の結晶

蚕と聞けば、もしかすると小学校で飼育をされた方もいらっしゃるかもしれませんね。全身を白化粧した幼虫はクワの葉を食べ育ち、いずれ繭(まゆ)を作り、サナギとなります。このときの繭からは作られます。

「1頭の蚕が、ひとつの繭を作りますよね。でも稀に、2頭が一緒になってひとつの繭を作ることがある。その繭を〝玉繭〟といい、玉繭からできる〝玉糸〟を織り上げたものを〝しけ絹〟といいます。2頭の蚕が産みだした愛の結晶なんです」と紀子さん。

工場内部。数多に置かれた織機はどれも年期の入ったものばかりですが、ひとたび起動させるとガッシャンガッシャンと威勢良く機織りを始めます
工場内部。数多(あまた)に置かれた織機はどれも年期の入ったものばかりですが、ひとたび起動させるとガッシャンガッシャンと威勢良く機織りを始めます

玉糸ということからも分かるように、この糸には点々と節があります。織物になったとき、この節々が存在感のある表情を与えます。

蚕たちから玉繭が生まれる確率は実に、100個に2〜3つ。かつては「節絹」と呼ばれ、どちらかといえば安く取引されていましたが、現在ではその希少性とまたとない模様が評価され、「玉繭」「玉糸」ともに高値で取引されています。

しけ絹のところどころに見える白い玉こそ2匹の蚕が愛を紡いだ証
しけ絹のところどころに見える白い玉こそ2匹の蚕が愛を紡いだ証

5000年続く人と蚕の歴史 

大日本蚕糸会「養蚕の歴史」[1]によれば、人と蚕の歴史はとても古く、いまから約5,000年前に中国の黄河や揚子江流域で家畜化されたのが始まりとされています。これが紀元前200年ごろ、漢の時代になると中近東を経由してローマまで広がりました。この交易ルートこそ、かの有名な「シルクロード」です。

の素晴らしさは、光の通し方にあります。ポリエステルに光が当たっても、一方通行に跳ね返るだけですよね。でもの場合、なかに無数の繊維が詰まっていて、しかも繊維のカタチが三角形なんです。いわゆるプリズム効果で乱反射するから、表面に光沢が生まれる。眩しい光も、絹越しではとても柔らかくなるんですよ」

松井機業が開発した「しけシルクシェード」。強い日差しも落ち着かせてくれます
松井機業が開発した「しけシルクシェード」。強い日差しも落ち着かせてくれます

日本では江戸時代末から製糸機械化が発展し、明治時代には富岡製糸場が建設され、各地の製糸技術向上に貢献しました。また全国的にも繭を作る養蚕農家が広がり、1930年代には農家の40%で養蚕が行なわれるほど、国を挙げて製糸に取り組んだのです。

しかし化合繊維物の普及などによって、絹業は衰退の一途。現在、全国の養蚕農家は数百世帯まで激減し、しけ絹の製造に至っては全国で松井機業のみが、製織から精練、染色をしたのち、和紙と張り合せるという昔ながらの製法で取り組んでいます。それほど過酷な状況下において、6代目としての家業継承を見据える紀子さんは一体どんな想いを秘めているのでしょう。

 

 

1時間の対話が人生を変えた

なんとも意外なことに、紀子さんが家業を考え始めたのは最近のことでした。

松井機業の三女として誕生した紀子さんは地元高校を卒業後、東京の私立大学に進学。そのまま証券会社の営業職に就きます。

「大学卒業後、親からは帰って来て欲しいと言われました。でもすぐに帰るより、1度は東京で社会人を経験した方が親にも甘えんでいいしとか、うまいことを言いながら(笑)」

 

 

その当時は、家業の絹織物に全くといっていいほど興味を抱いていなかったといいます。

「なんだか古い物を作る衰退産業、というイメージしかなかったんです。だから継ぐ気は毛頭なくて。公私共に充実した生活を送っていたから、周りからも〝最も地元に帰りそうにない人〟なんて言われていたほど」

 

ターニングポイントになったのは、2009年のこと。

松井機業5代目の父、松井文一(まつい・ふみかず)さんが上京し、得意先を訪問することとなり、面白い話が聞けるかもしれないからと紀子さんを誘いました。かくして好奇心で飛び込んだ先での1時間で、紀子さんの人生はがらりと変わったのです。

 

Matsui_002

 

「1時間の話し合いのなかで、とにかく蚕の素晴らしさを知った。蚕は豚や牛よりも古い家畜で、家畜として1頭2頭と数えること。生糸は紫外線をカットしてくれること。そしてアンモニアを吸収するばかりか、水分を吸ったり吐いたりという調整までしてくれること。それほど可能性のある繊維なんや!とキラキラして見えた。初めて、自分もやってみたい!と思った。なにか揺さぶられるものを感じました」

こちらが「玉糸」。一般的な生糸と比べてハリと強さがある印象です
こちらが「玉糸」。一般的な生糸と比べてハリと強さがある印象です
紀子さんの手に載っているのが「玉糸」の玉部分
紀子さんの手に載っているのが「玉糸」の節

ブラジルの地で玉糸を紡ぐ同志たち

人生は1度きり。リハーサルはできない。今でなければ、いつ帰るのかと一念発起。すぐさまUターンの道を決意したといいます。その年の暮れには家業を継ぎたい旨を両親に話し、年が明けて3月いっぱいで退社。その翌月には糸作りの現場を見るため、一路ブラジルへというスピード展開。それにしても、なぜブラジルだったのでしょう?

 

「実は松井機業で使われる玉糸、ブラジルから来ているものなんです。生糸ならまだしも、2頭の蚕による玉糸は生まれる確率の低いもの。日本での生産は現実的ではなくなってしまったのが事実です。ブラジルには100年ほど前に日本人が移民していて。かつては日本語でも通じるバストスという村があったらしいんですね。そこで起業された製糸会社のブラタクさんを訪れました。工場長さんは日本人。日本の大学を卒業したのちブラジルまで渡られた方たちがいる」

生糸を織れるようにするためには「糸繰り」という作業が必要です。とりわけ「玉糸」は節が引っかかってよく切れてしまうため、このように人が介入して大切に紡がれます

ブラジルの地で紀子さんが出会ったのは、なんとしてでも要望に応えてみせる、という日本人の物作り精神が溢れる同志でした。さらに紀子さんは、日本人が対応してくれるメリットとして、絶妙なコミュニケーション能力を挙げます。

「例えば〝弾けるくらいの元気な玉糸が欲しい〟という要望を出したとしますよね。それって、日本人だから分かってもらえるようなニュアンス。それも理解しながら付き合って下さるので、今も引き続きお願いしているんです」

 

 

ここでしか聞こえてこないものを形に

地球の裏側で家業を支えてくれていた人々との熱い交流を深めたのち、帰国した紀子さんは、エンドユーザー向けの、手に取れる商品開発に取りかかります。2012年、富山のリゾートホテル、リバーリトリート雅樂倶(がらく)で1ヵ月間の展示会を経て、西武渋谷店や東京ビッグサイトでの展示会に次々と出展。

 

「うちでは薄い生地しか作れない。それだけに、ファッションブランドに卸している企画会社に持ち込んでも、物性が弱いから向いてないと。唯一、使えるねと言ってくれたのは、オートクチュールのドレスを作られている方でした。オートクチュールの世界では冬がない。透ける素材も、きれいでいいですねと仰って下さって。そのとき初めて、響いてくれる人はここにおったんや!と気づかされた」

 

 

無理難題にも真っ向から挑み、ひとつひとつと丁寧に向き合い、無我夢中で駆け抜けてきた紀子さん。しかしあるとき、目の前に見えるものを追いかけるだけでは辿り着けない〝問い〟にぶつかったといいます。

 

「代々続く家系で物作りをされている方々や宮大工の棟梁さんと話すと、彼らが気にしているのは、自分の作ったものを100年後、200年後の人々がどう思うかということ。自分のライバルは100年前の職人と100年後の職人やという職人さんもいる。そんな話を聞くたび、打ちのめされた気分になっていました」

時代の移り変わりは玄関先に備え付けられたタイムカードからも感じ取ることができます。その昔、絹織物が盛んな時代には100名規模の工場でしたが、現在は松井家と僅かな従業員のみとなりました

「あるとき、おじいちゃんの仏壇前でつぶやいとったんです。私になにができるんやろうなって。そのあと周りを見渡したら、しけ絹のフスマが目に入った。私はこれを後世に伝えていかなければならない。じゃあ、しけ絹が最も輝く瞬間はいつなんだろう?と」

「私はしけ絹にお遣いする6代目。この場所で感じられる、目に見えないもの。耳を澄ませたら、声が聞こえてくるもの。そういうものを日々感じ、美しさを研究し、城端の歴史を勉強しなければいけないなと思いました」

松井家の座敷に設置された「しけ絹」の襖。「しけ絹はどちらかといえば、衣類よりもインテリアや空間演出に素晴らしい相性を発揮します。フスマやシェード。今後はランプシェードをカタチにしたいと思っています」

夢は南砺市産ので織ること

紀子さんが背中を追いかけてきた父、5代目は現在67歳。工場でその手助けをする母は61歳。どうか2人とも生涯現役でと願えども、残された時間は限られています。それでも未来に向かって、前のめりに突き進んでいく紀子さん。

「私の夢は南砺市産の絹で織ること。それに南砺市の田中市長も乗って下さった。市長さんは『美しい未来は、懐かしい過去にある』と仰っていて。南砺市の桜ヶ池にあるエコビレッジに、水力発電と太陽光発電を備えた循環型の小さな村を作ろうとされている。そこでお蚕さんを復活させるつもりです」

松井機業が立ち上げた「しけ絹」の新たな使い方を提案するブランド「JOHANAS」(ヨハナス)より「しけ絹 祝儀袋」
松井機業が立ち上げた「しけ絹」の新たな使い方を提案するブランド「JOHANAS」(ヨハナス)より「しけ絹 祝儀袋」

「それと同時に、90歳ヒアリングというのもしていて。今でこそ電気がないと暮らせない生活だけれど、戦前までは電気がなくても暮らせた。だから90代の方々に戦前の暮らしをお聞きしているんです。それを今に活かしたい。ついこの前まで養蚕をやっとった方もいらっしゃって。そのお知恵を活かしながら私も養殖に関われればいいなと思っています」

 

 

かつて南砺市の合掌集落で育てられた蚕たちが時を超えて、この現代に再び真っ白な翼を羽ばたかせる日もそう遠くなさそうですね。それを暖かく見守るのは、豪快な笑い声を響かせてたくさんの人々と富山城端を盛り上げる「松井機業」6代目の松井紀子さん、その人に違いありません。

 

松井機業

明治10年創業以来、一貫して絹織物業を行なう。しけ絹を利用したインテリア商品や斜子・紋紗などの表具地、和装用夏用襦袢として使われる駒絽などの小幅織物を製造している。

松井紀子

東京生活8年目にして、絹織物に魅せられ2010年にUターン。明治10年より続く家業の松井機業を継ぐことに。現場で修業するうちに日に日にものづくりや城端への念が強くなり、城端において仕事に携わっていく喜びを実感している。

 

【参考文献】1、大日本蚕糸会「養蚕の歴史」
www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html

しけ絹扇子「ka福」 ネイビーブルー 通販ページはこちら
しけ絹扇子「ka福」 グレーサックス 通販ページはこちら
しけ絹扇子「ka福」 オレンジゴールド 通販ページはこちら