
西陣織の歴史と奥深い魅力
情緒ある街並みが美しい街、京都。
そんな京の都で古くから伝えられている伝統工芸品のひとつに、西陣織があります。
美しく染められた糸をつかって織り上げられた西陣織の生地の表面には、華やかできらびやかな模様が。細かな装飾を施された西陣織は、江戸時代には諸大名や藩の重役、豪商などといった富裕層より高い支持を得ていたそう。
そんな西陣織は、1976年に国の伝統工芸品に指定され、多品目少量生産を続ける西陣織は、世界的に高い評価を得ています。そこで今回は、そんな西陣織の歴史や特徴、そして奥深い魅力に迫ります。
西陣織の特徴
西陣織の特徴は、多品種少量生産の先染めの織物であること。
“多品種”というだけあり、西陣織には「綴(つづれ)」や「緞子(どんす)」などといった、さまざまな織り方があります。昭和51年に伝統的工芸品の指定を受けており、現在は12種類の品種がその指定の対象となっています。
「西陣」の由来
この「西陣」という名前ですが、地名かと思いきや、そのような地名は存在しません。
西陣とは、京都市街の北西部の上京区、北区を中心とした地域全体の総称のこと。では、何故そのように呼ばれるようになったのでしょうか? 西陣織の歴史について、すこし迫っていきましょう。

西陣織の歴史
西陣織のはじまりは非常に古く、古墳時代にまでさかのぼります。大陸から渡来した秦氏の一族が、現在の京都のあたりに住みき、養蚕と絹織物の技術を伝えたのが発端とされています。
平安時代になると、朝廷では織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに職人を集め、綾や錦といった高級織物が生産されるようになります。やがて朝廷の手から離れ、職人たちが自ら織物業を営むようになっていきました。
鎌倉時代には、職人たちが大舎人(おおとねり)町に集まって住むようになり、その織物は「大舎人綾」や「大宮絹」という高級織物として珍重されました。
室町時代の中ごろになると京都では、東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります(1467年)。11年という長きに渡って繰り広げられたこの戦によって、大舎人町も壊滅状態となりました。職人たちは、戦火を逃れるために堺などの各地へ離散していきました。
しかし戦乱が治まったのち、職人たちは西軍の本陣があった大宮今出川のあたりに再び集まり、織物業を再開。つまり、西陣という名前の由来は、この「西軍の本陣」にあると言えます。
江戸時代半ば、町人文化の台頭とともに隆盛を極めた西陣織ですが、度重なる飢饉や大火、また明治時代に都が東京に移されたことが影響し、段々とその勢いを失っていきました。
しかし、京都府は文明開化の波にいち早く乗り、フランスのリヨンに職人を派遣。ジャカード織物の技術を導入することによって近代化に成功し、現在でも日本で最高級とされる地位を確固たるものにしたのです。
西陣織の奥深い魅力と挑戦
西陣織というと、帯地や着物といったイメージが強いかもしれません。ですが、近年ではネクタイやショール、アクセサリー、インテリア用品などの新たな分野にも西陣織がとり入れつづけられています。
NEKADO
ネクタイ -富士山 紺-
時代の移り変わりとともに、柔軟に進化を遂げてきた西陣織。
ただ現代では、和装を着る習慣がほとんどなくなったこと、不況による製品単価が低下していることから、職人の数が年々減っているという側面もあります。また、西陣織はひとつの織物の完成までに複数の工程が存在し、それぞれの工程にあった職人が存在します。そのため、1人でも欠けてしまうと、西陣織を完成させることは難しくなってしまいます。
いちど途切れた技術を復活することは大変困難なので、西陣織の奥深い魅力を途絶えさせないよう、日々さまざまな取り組みが行われています。